2004年 茶屋新四郎、新六郎とベトナム沈香木
名古屋の東区筒井町に情妙寺という日蓮宗のお寺があります。
ここに日本と安南国(ベトナム)の貿易船(朱印船)を描いた畳三畳ほどのとても大きな大和絵の巻物が大切に保存されています。
ご住職のご厚意で拝見する機会を得ました。
絵中の主人公は茶屋新六郎といいます。
茶屋家はもともと新六郎の曾祖父の時代まで、中島郡(今の津島近辺)の呉服商でしたが、やがて信長の天下と共に京に上り、京でも呉服商を営んでいました。
祖父四郎五郎清延のころは秀吉方に仕える呉服商でしたが、朱印船貿易にも着手しだしました。
徳川の江戸時代になり、父の新四郎が大阪の陣で家康方の陣中服の誂えの功で引き立てられ、街整備の進む尾張徳川の名古屋の地にやってきました。
そして、朱印船貿易を営む豪商として活躍するようになります。(尾張の城下町に茶屋町という町名ができたほど有名でした。)
さに、この絵巻はその江戸時代の絶頂期、寛永時代の朱印船貿易を題材にしています。
安南貿易には特産のタイマイ(ウミガメの甲羅、べっこう)、沈香・伽羅など香木をはじめ桂皮(ニッキ)などの漢方薬の草木なども含まれていたことでしょう。
ところが、1634年、江戸幕府は鎖国令を出します。新四郎新六郎父子が安南国との朱印船貿易に乗り出して、わずか5年のことでした。
当然、茶屋家は朱印船による貿易ができなくなりました。
しかし、もともと海外への領土拡張に魅せられ朱印船貿易をはじめたわけですから、こんどは国内の領土拡張に目を向けることになります。
尾張藩主徳川義直公に伊勢湾の埋立てを申し出て、やがて二百五十町歩という広大な面積の新田を苦労の末、切り開きました。
「茶屋新田」としてその名を残す現在の港区南陽町の辺りです。
家康が安南に求めた黒い伽羅木の一片を薫らせながら、朱印船貿易の浪漫を夢見た一日でした。